日常

脳内垂れ流し系ブログ

〈春はあけぼの〉と聞いて「それわかる〜」と言う人間が現代において多いかと言えばそうではないと思う。私も十二単を羽織って「それわかる〜」と言えれば楽だったのだろうが、私はこう言うだろう。春は憂鬱、と。


これを聞いて大半の平安人はそっぽを向いてしまうだろう。いや現代人でも賛同を得られるかどうか。春と聞いて思い浮かぶのは、世間が塗り固めたようなイメージ、新生活や出会い。それらはまことしやかに希望や期待に溢れているように描かれがちである。しかし、それだけではないだろう。その一方で不安に思う気持ちも少なからずあるはずだ。次の場所で友達ができるか、仕事仲間とうまくやれるか、上司は悪い人じゃないか——抱える不安は様々だろう。多彩な様相を帯びるいじめとハラスメントは少なからず、現代の労働世代を悩ませているはずだ。
しかしこれは不安であり、憂鬱というには足りない。ここに加わるのは懐古の気持ちだろう。新しい職場になったが前の方が良かった、大学に入ったが高校時代の友達に会いたいなど。前に戻ることもできず、後に進むのも怖い———そんな状態を憂鬱と言うことは可能だろう。
では春の憂鬱とは新たな始まりを迎える者にだけあるものなのか?否、私の抱える憂鬱は後者の方だろうと思う。

 

私にとって新しくなることといえば年度の数字と天皇くらいである。それ以外にめぼしい変化はないだろう。春が私に与える期待は蜃気楼のように浮かんでは消えて、どこか遠くに行ってしまう。取り残され、先に進みたいような感情と安定性を求める怠惰が私を動けなくしている。私はこれを憂鬱と表現したいのだ。

我々にとって変化があろうとなかろうと春は憂鬱をもたらす。この憂鬱には安定性を求めるという現代日本人にありがちな感情がこもっていると私は思う。前者には変化する環境の中で安定を求めるための憂鬱であり、後者は変化を迫るようなイメージから逃れ自分を確立したまま生きるという安定を求めるための憂鬱なのだろうと私は解釈する。

 

春は憂鬱。澱んだ目にも桜はきれいに見えるだろう。内と外から掻き立てる焦燥感を桜は癒してくれる。桜の美しさは毎年変わりようがないのだから。