部屋
何となく1枚肌着を重ねた夜
人のことが羨ましくてしょうがなかった
周りが輝いて見えて自分だけが惨めに見えた
自分の気持ちなぞ、死んでもわかるものかと叫んでた
自分が何を目標にしたいのか、どう生きていくのか
不安でしょうがなかった
周りは支えてくれる人がそばにいて
自分はただ独り、無機質な机と向き合っていた
ゴミみたいな世の中が、くだらない現実が、
嫌でしょうがなかった
人を信用するのも、期待してしまうのも、
ほとんどが無駄だった
死ねと言った言葉が
壁に跳ね返って届いた
青春ごっこ
所謂 “青春” と言われるものを欲する人が世の中に多いと感じる。
おそらくイメージする “青春” とは「恋愛も部活も楽しんじゃうぜ!俺って頑張ってるぅ!Foo~~~~」みたいな、進研ゼミか?的なことが多いのではないかと思う。違ったらごめんね。
僕自身はこの「自分は頑張ったからOK」みたいな緩い感覚に寒気を覚える。
なぜならそういう人の中に「現状を変えます!」とか「優勝します!」とか宣言する人がいる。もちろん、チームの代表だとかOB・OGの期待だとかに応えるために仕方がないという面もあるだろう。でも僕がその人たちに問いたいのは「目標に見合うだけの努力をしたの?」ということ。
見ている限りでは目標が達成できずとも、「まあ自分は頑張ったから別にいいでしょ」という空気感を本人が纏っているように思える。そして反省点を考えて同じ轍を踏まないようにすることもしない。こういうのを見ていて僕は『ああ、この人は別に目標を叶えたいわけじゃなくて、何かを頑張ったという証が欲しいんだな』と思ってしまう。
この「何かを続けたから、打ち込んだからOK」という感覚を早く社会から無くさなくてはならないと強く思う。社会や全体にとって意味のあるものは結果の出たものだけ。自分が頑張ったなんてものはただの自己満である。それでいて高い目標を空虚に叫ぶ様はとても痛々しいと感じてしまう。
青春ごっこは構わないけども、それを社会が認めていたらもうおしまいでは?
作品
ふと姉の結婚式を思い出した。
式場に入ったことはなかったが、神殿を思わせる大理石様の台座や空中に散りばめられたクリスタルが、どことなく神聖な雰囲気を醸し出していた。会場や式の流れなどの全てを2人で考えたのだから、本当に苦労したのだろうな。2人とも働きながらこなすって想像つかないほど大変なのだろう。
印象的だったのは披露宴だった。2人ともが好きなラブライブ!のキャラのカラーを模したウェルカムドリンクが用意されていた。披露宴中の曲は姉が好きなアーティストのもので、2人で考えたパフォーマンスが会場を沸かせていた。結婚式とはそこまでの人生の作品だなと僕は感じた。2人の生い立ちからここまでの人生が語られ、それに関係あるもので形作られる様を見ることができた。
26歳でこんな完成形を出せる気がしない。感動と劣等感と期待と不安が入り混じって、溜息が出た。人生の賞味期限が近づいている様な気がする。自分が思う綺麗な作品が作れるには、もう、あまり時間がないのでは。
秋刀魚の秋
酷く疲れていた。モンスターを煽りながら2時間睡眠でテストに臨んだ体にふさわしい疲れだった。今日はもう何もしないことを早々に決めて、雨の中クリスロードへ。眼鏡を取り替えに行かなくてはいけなかった。
自分で決めて買った眼鏡をつけるとなんだか少し気分が良くなったので、帰りにスーパーに寄った。スーパーには秋で連想できるような食材が陳列されていた。昨日も中秋の名月とやらでSNSがにぎわっていたが、正直秋とやらには不信感を覚えている。食欲の秋や読書の秋などと言うが、自分の中では「秋と関係なくね?」と常日頃思っている。何かを始めるのに秋と結びつけないといけないのだろうか。秋も秋でいろんなものとくっつきすぎ。反省してほしい。じゃあもう “眼鏡の秋” でいいじゃん。
秋になると人肌恋しい季節になるし、イベントが一通り終わってある程度時間ができることもある。要するに夏が終わった寂寥と「何かやらなきゃ」という焦燥から秋とくっつけて何かを始める輩が多いのではないだろうか。そんなことを考えながらスーパーを見て回っていると秋刀魚が横たわっていた。腹がある程度膨らんでいて、照明に当たってキラリと光る様子が秋に相応しい姿をしていた。脳内がグリルで焼いた秋刀魚でいっぱいになったので、一緒に大根を買って帰宅した。
大根おろしと秋刀魚を頬張りながら、秋ってやっぱいいななんて思って、“食欲の秋” と言いたくなる気持ちが少しだけ分かった気がした。でも癪だから「秋刀魚の秋」にしておこう。秋刀魚は名前に秋が入ってるし仕方ないね。
コーヒー
今日もコーヒーを飲む。ゆっくりと過ごしたいから。
特に味にはこだわらなかったりする。缶コーヒーでもいいし、店で買ってもいい。でも時間があるときにはゆっくりとコーヒーを淹れる。ミルで豆を挽くとき時間がゆっくりと流れる。そうして、焦らずに淹れたコーヒーをゆっくりと飲む。
コーヒーは嗜好品である。嗜好品の特質というものがあるらしい。特に健康的な効用やエネルギー源として取るものではなく、精神に良い効果がある。また、ないと寂しい感じがする、人の出会い・意思疎通を円滑にするというのもあるらしい。
嗜好品は自分が楽しむためのものだと思っていたが、どうやら嗜好品とは自分を楽しませるものだったようだ。酒やコカインなどはその特性が顕著だろう。だが、私はあくまで「嗜好品を楽しみたい」のだ。
酒にしろコーヒーにしろ中毒になってしまったのならそこに楽しむ余地はないだろう。楽しませられているだけだ。だが、健常だと思っている自分の精神が実はコーヒーによって作られたものだったとしたら?もうすでに中毒患者と変わらない状態なのかもしれない。思えば、昔はコーヒーが苦手だったのになぜ飲めているのだろう。私はただ単にコーヒーが作り出した快感をもう一度味わいたいためだけにコーヒーを飲んでいる可能性だってある。精神という非常に不安定で曖昧なものに作用するということを簡単に言ってしまうのは正直解せない。今もこうして私の心はコーヒーを楽しんでいるのに!
嗜好品というものに我々の精神はどこまで介入できるのか、その問いは果てしなく感じる。そこまでいくと精神論のようなものになってしまうが、確かなことはこのコーヒー一杯に楽しもうという私の気持ちと楽しませようというコーヒーの作用が相まっているということだと信じる私の精神のみである。
春
〈春はあけぼの〉と聞いて「それわかる〜」と言う人間が現代において多いかと言えばそうではないと思う。私も十二単を羽織って「それわかる〜」と言えれば楽だったのだろうが、私はこう言うだろう。春は憂鬱、と。
これを聞いて大半の平安人はそっぽを向いてしまうだろう。いや現代人でも賛同を得られるかどうか。春と聞いて思い浮かぶのは、世間が塗り固めたようなイメージ、新生活や出会い。それらはまことしやかに希望や期待に溢れているように描かれがちである。しかし、それだけではないだろう。その一方で不安に思う気持ちも少なからずあるはずだ。次の場所で友達ができるか、仕事仲間とうまくやれるか、上司は悪い人じゃないか——抱える不安は様々だろう。多彩な様相を帯びるいじめとハラスメントは少なからず、現代の労働世代を悩ませているはずだ。
しかしこれは不安であり、憂鬱というには足りない。ここに加わるのは懐古の気持ちだろう。新しい職場になったが前の方が良かった、大学に入ったが高校時代の友達に会いたいなど。前に戻ることもできず、後に進むのも怖い———そんな状態を憂鬱と言うことは可能だろう。
では春の憂鬱とは新たな始まりを迎える者にだけあるものなのか?否、私の抱える憂鬱は後者の方だろうと思う。
私にとって新しくなることといえば年度の数字と天皇くらいである。それ以外にめぼしい変化はないだろう。春が私に与える期待は蜃気楼のように浮かんでは消えて、どこか遠くに行ってしまう。取り残され、先に進みたいような感情と安定性を求める怠惰が私を動けなくしている。私はこれを憂鬱と表現したいのだ。
我々にとって変化があろうとなかろうと春は憂鬱をもたらす。この憂鬱には安定性を求めるという現代日本人にありがちな感情がこもっていると私は思う。前者には変化する環境の中で安定を求めるための憂鬱であり、後者は変化を迫るようなイメージから逃れ自分を確立したまま生きるという安定を求めるための憂鬱なのだろうと私は解釈する。
春は憂鬱。澱んだ目にも桜はきれいに見えるだろう。内と外から掻き立てる焦燥感を桜は癒してくれる。桜の美しさは毎年変わりようがないのだから。